逃げている。手と手を取り合って、逃げている。
別に何から、というわけではない。ただ行くべきところがないので、逃げている。
2人でいる事にたどり着くべき先がないから、先を見ることから、逃げている。

 握り合った手が、少し汗ばんでいる。最後に手を離したのがいつのことだかは定かではないが、
まるで、いつかはくっついてしまうモノであるかのように、ぴったりと手をつないでいる。
「このまま溶けてしまえばいいね」と私が言うと、
「このまま消えてしまえばいいね」とあなたが言う。
「どうして私たちは1人でないのだろう」とあなたが言う。
「どうしてこの手は1つでないのだろう」と私が言う。

 楽園、について考えるのはこんなときだ。
聖書に書かれた美しい庭。人間が、初めての罪を犯した場所。どこにもない場所。
ありえない場所だから、美しく、切なくて、薄っぺらな場所。
ひゅるりとした蛇の住む、禁断の果実を実らせた樹の生える場所。
人のことを心から思うなら、なぜ神様は「知恵の実」の木なんか植えたんだろうか。

 どこかから潮の香りがする。道は太くなるでもなく細くなるでもなく、暗い。
街頭が申し訳程度に明かりを落とす。それが余計に闇の濃さを際立たせる。
隣に居るのに、あなたの顔はぼやけてかすんで見える。手も体も輪郭だけの存在になって居る。
つないでいる手の感覚ばかり、確かだ。確かに吸い付くように手をつないでいる。
けれど見えない。見えないから、この手の先につながっているのが何なのか、わからない。
「そこにいる?」私は聞く。
「ここに居るよ」あなたが答える。
「私と手をつないでいる?」と私が聞く。
「君と手をつないでいるよ」とあなたが答える。
風が強く吹いて、潮の香りが一瞬強くなったように感じる。
あなたの肌の香りが私の周りをすり抜けてゆく。姿が見えないのに。
月が全然みえないね、と呟くあなたの声が聞こえる。顔が見えないのに。
 
 潮の香りがまだかすかにする。闇は深い。夜は私たちを包み込んだままだ。
私は楽園について考える。あなたは蚯蚓が鳴いているねとつぶやく。
私たちは手をとったまま、逃げている。追われているわけでもないのに、逃げている。
楽園について考える。輪郭だけのあなたと禁断の果実の味を確かめる。
逃げている。夜の闇の中を私たちはひたすらに逃げてゆく。


蚯蚓 -みみず-

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