蝶は白く、透けるようで、儚気だった。
昼下がりの飽和した日差しが窓から差し込み
その下で蝶は薄い羽を音もなく上下させている。

たたん、たたん、たたん。


車内は静かで、自分の他には数えられるほどの乗客しかいない。
レールの節目で音が鳴る。まるで足踏みのように鳴る。
この微かな振動は心地よい眠りを誘うとはしっていても、
微かな振動がこの空気を壊す事がないかと心配してしまう。
どこかから紛れこんだのであろう蝶だけが、動き回っている。

たたんたたん。たたんたたん。

蝶は開かない窓の前で、ヒラリヒラリとしばらく舞っていたが、
やがてあきらめたのか、そっと背広の男の肩に腰を下ろした。
男は蝶など気にも止めず、眠りの幸福を味わいつづけている。

たたん。たたんたたん。

日差しの溶けすぎたこの車内で溺れている。。
半分眠ったようにな感覚の中、蝶だけを見つめた。
蝶は変わらずずっと男の肩にとまり、ひっそりと溶け込んでいる。

たたんたたんたたん。
たたん。たたんたたん。

足下の振動。
蝶はじわりじわりと男の耳元へと近づいてゆく。
その動きはあまりにかすかで、わからない。
しかし、蝶の羽がかすかに左右に振れるのでそれがわかる。
いつしか蝶はその舌をゆるやにのばし、男になにかささやく。
男はこんこんとねむりつづけているが、
蝶はささやくのをやめない。その声はとても魅惑的だ。
車内には、蝶の声と、車輪の音しか聞こえない。
そういえば、この電車はどこまでゆくのだろう。

たたん。

蝶がささやく。

たたんたたん。たたん。

長い舌を伸ばし、男にささやく。

たたんたたん。たたん。

男は目を覚ます気配もなく、どんどんふかくふかく眠りにおちる。
ふと私は、すべてのことから開放されるのを感じた。
記憶も自分からも開放され、私はすべてを忘れる。
ひっしに思い出そうとするのだが、思い出すこともかなわない。
何より、何を忘れているのかということも忘れてしまった。

たたん。たたん。

「さあ、お前もねむっておしまい」
いつの間にか蝶は私の肩口に止まっている。
くるりと伸ばされた蝶の舌は、私の耳の奥底へ直接語りかけてくる。
蝶が囁やいて、私は堪えていた眠気の手をそっととってしまう。
瞼は重く重く、徐々に視界は奪われていった。
囁く声がくるくると私の周りを回り、深く深く眠りへと沈んでゆく。


「さぁ、お前もねむって、おしまい。」


あぁ、この電車はどこへ行くのだろう。
たたんたたんとおとをさせて、飽和した昼下がりを



電車はどこまでも走る。




蝶の舌

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